〔論説〕◎クンダリーニ・ヨーガの功罪について


・遺品。※は管理人注。獄中から玉龍寺に寄稿されたものと思われます。原文ママ。

《日常生活の中で、突如クンダリーニのエネルギーが上昇し、 様々な病的トラブルに遭う人間の生体機能とは、何と未成熟な欠陥生物と言えないか》 宮前 墨嶽

本山(※玉龍寺のことか)のホームページにも紹介されるヨーガとは、一昔前から、修行メニュに組み込まれ、既に体験された古参の在家仏教者は少なくない。

ヨーガといっても、それは多様なヨーガの中で、一般的なハタ・ヨーガを含めた、解脱を目的とするクンダリーニ・ヨーガの一部であり、仏陀やダルマ、そして中論を説いた龍樹までもが体験していた修行法の一つであった。

そのクンダリーニ・ヨーガとは、一体何物なのかを先に述べていきたい。

クンダリーニ・ヨーガとは、螺旋を意味するサンスクリット語であり、その『クンダリーニの覚醒』に至ることで『梵我一如』を体感し、解脱できるという。クンダリーニとは、人体に眠る生命エネルギーのプラーナを活用する修行法で、これは脊柱にある7万2千本のナーディー(意識路)の管を、プラーナが7つのチャクラを通過し、頭頂から体外へと貫く浄化法と言える。

このクンダリーニ覚醒の実践途中で「老と死を打ち滅ぼし、病苦を消滅する」などの超人的な項目がヨーガ経典に記される。

真の覚醒に至った聖人や達人がどれほど存在するかのデータは定かではないが、しかしヨーガはインダス文明を起源とし、5千年の歴史を遡り、その後、リグ・ヴェーダには、呼吸法や瞑想の実践法まで記され、仏陀が生まれる 700年も前から、編纂されていたのだ。

以降、バラモン教からヒンズー教へと受け継がれ、各種の密教からチベット仏教のニンマ派のゾグチェン (大いなる完成)に至った。特に、このゾグチェンには、カーラチャクラ・タントラ(仏性が時空に広がり、大宇宙から地球の過去までも含む、有情のすべてと一体となる感得(体験)より、四つの心滴で丹田から眉間までのチャクラ(マニプーラ・アナハタ・ヴィシッダ・アージュナー)を目覚めさせ、仏性体験が得られるともいう。

ここでの丹田は、禅の数息観で意識すべくへそ下三寸と同じ場所ではあるが、しかしクンダリーニのチャクラとは同じではない。

前述の心滴とは、後述する白隠禅師の夜船閑話に出てくる観想の雫が甘露となり、心身の浄化を促す癒しのエッセンスであると言って良い。

さて、日本の仏教界では、クンダリーニ・ヨーガの一部分を知識として教義に取り入れている処は、真言宗が中心であり、禅宗にはない。

それでも国内では最近、チベット仏教の寺院が増えつつあり、他のヨーガ教室とは違い、高度な修行法が学べるかも知れない。しかし、本格的にクンダリーニ・ヨーガの覚醒法を促す寺院は、国内では皆無に近いと言えよう。

処で、真言宗以外に、過去、日本ではクンダリーニを取り入れた宗派はないと、前述したが、実は、臨済宗の名僧が一人、存在した。

その人物は、江戸時代中興の祖と言われた白隠禅師である。それは、白隠禅師が記した夜船閑話だった。仙人と称された白幽子より直接授けられた内観法によって、当時、禅病と神経衰弱を患っていた白隠禅師は、みごとに克服し、更にこの内観法を究極の不老健康法として、その奥義を一般庶民へ広げ、たちまち多くの重病人り、たちまち多くの重病人を救済し、癒しの禅師として白隠禅師の名は全国に伝播し、現代に至るのである。この「内観の秘法」こそ、ヒンズー教やチベット密教の行法の一つとされる『ツァンダリーの瞑想』であった。

この観想は、クンダリーニのエネルギーによって、頭頂にあるハム字(梵字)のヒンドゥー (点)が溶け出し、この雫(甘露)が各チャクラに落ち、それが満たされることによって、心身を浄化へと導く秘法である。

白幽子が、一体誰から学んだのかはよく判らないが、この瞑想法をアレンジし、梵字をバターに置き換えたのは、当時の日本人にとって、よりスムーズに受け容れられた要因の一つではないかと思う。

そのような訳で、クンダリーニ・ヨーガの行法の一部が、江戸時代の頃から、白隠禅師のお陰で、既に庶民へと広まっていた、と言えるのか。否、それはあり得ない。矛盾となるが、聞いてほしい。なぜなら、白幽子の「内観の秘法」は、クンダリーニの覚醒とは程遠く、白隠禅師でさえ、解脱へと導く秘義が隠されているとは気付いていない。ましてクンダリーニやチャクラの名称も知らなかった。

厳密に申せば、白幽子の内観法は、心身の浄化によって心の病を治すものであり、解脱を目的とするクンダリーニの覚醒とは程遠いものである。

ならば何故、白隠禅師を持ち出して、この内観法が、まるでクンダリーニ・ヨーガの行法の一部に関連するのか、のように訴えたのか、その理由を示さなければならない。

この「ツァンダリーの瞑想」とは、行法の次に観想がメインとなるもので、要するに、 先に呼吸法などの行法が必須項目で、この行法によってクンダリーニの生命エネルギーが 上昇し、初めて観想に移る準備が整うのである。逆に申せば、クンダリーニのエネルギーが頭頂まで到達しなければツァンダリーの甘露は一滴たりとも落ちないのである。

そうすると、白隠禅師のクンダリーニの上昇を意識せずに、白幽子の内観法で克服できたのは、既に覚醒していたということである。一言で申すなら、行法なくして、覚醒していたということだ。

すると、白隠禅師は行脚の修行中に、いつの間にか、心身のコントロールを失い、禅病的なノイローゼの果てに白幽子のもとに辿り着いたのだ。

志の高い雲水は、常にそうかも知れないが、修行中に自己を追い込すため、精神力(胆力)を養うのは当然とし、中には自己の実力を超えた無理な行法をやり過ぎて魔境に陥穽する者が出てしまう虞が、あった。

当時も今も、修行中に、心の病気や幻覚、幻聴を訴え出す修行僧に対し、師家が喝と叫び、単に魔境だと決め付けるのみで、その修行僧の状能を見極めもせず、冷静な対処法でもって、元の状態へ戻すこともできない僧堂が少なくなかったと言えるのではないだろうか。指導者である師家の力量が問われるのは今も昔も同じである。

いずれにせよ、白隠禅師の夜船閑話が多くの庶民に読まれていたのだから、全国の僧堂でも、禅病的な魔境を治すため、役に立ったことは言う迄もない。

そこで疑問が生じるのは、白隠禅師が他の修行僧の如く、厳しい修行中に、突如として上昇するクンダリーニの覚醒が、どうして一般庶民の多くにも同じように起こり得たのか、ということである。

心の病気も多様であり、個々に違いはあれど、現実には夜船閑話の内観法で多くの人々が完治したのだから、修行僧でない一般人であっても、クンダリーニは突如として、覚醒することもあり得るということだ。

要するに、時として、精神に支障を来す病気の一部には、当人が気付かぬ内に、何かのショック等で、クンダリーニのエネルギーが上昇し、脳を圧迫し、心身に支障を与える魔境的な禅病も少なくないということだ。

一般的に、日本人にはクンダリーニの覚醒という形態は、ほとんど知られていないし、クンダリーニという言葉そのものになじみが薄い。しかし、クンダリーニのエネルギーが上昇することによって、発揮されるパワーは、常識では考えられぬ現れ方をする。

例えば、火事場の馬鹿力のような出来事や出産時のショック。交通事故の肉体に受ける 大きな衝撃でクンダリーニが覚醒してしまう例もある。

そうすると、一般人の場合は、アドバイスのできる導師が身近に居なければ、その後の社会生活が困難となり、幻覚や幻聴どころか、中には半身不随となり、精神科に入院するケースも必然的に起こり得るのである。

視野を広げるならば、人間である限り、時として簡単にクンダリーニを覚醒するがゆえ、 不慮の事故や災害以上に、その後の人生を左右してしまうほど、クンダリーニとは、恐ろしくやっかいな代物であることは間違いない。(精神科に通院する何%かの人々が、クンダリーニの禅病を患い、更に薬害の副作用で苦しんでいるかと思うと、益々深刻な問題である。) 人類とは、何と未成熟な欠陥動物ではないかと、思わずにはいられない。

修行僧であっても、正師の導師が付いていなければ、エネルギーのコントロールはおろか、失敗して廃人となり、一生涯、再起不能というケースも現実問題として、少なくない。

クンダリーニ覚醒時のトラブルを回避するには、どうすべきかをこの場で掲げるならば、 既に述べている内観法やツァンダリーの瞑想をマスターすることが大切であろう。更に付け加えるなら、ホンモノの正師からアドバイスを受ける環境下にあることである。

もう一歩踏み込んで述べるならば、覚醒時のトラブルを解消する方法が、心の浄化であるならば、いつ覚醒しても良い状態を作り出すことであろう。

インド人もチベット人も同じく、クンダリーニの覚醒のトラブルをよく知っている。上記のサードゥに成るまでには多くの時間と功徳、そして、心の浄化が備わっていなければならないことも常識として認識済みであろう。もう、敢えて詳しく申すまでもないことかも知れないが、いつクンダリーニが覚醒したとしても、事前に、日頃から心の浄化を施していれば大きなトラブルに至らないということだ。

要するに、人として徳のある人格者であり、心が成熟し、純粋な状態を保ち続ける社会人であることが最大の要点であると言えよう。少し、敷居が高いと反発されるかも知れないが、しかし、社会人として未成熟なものや、ある団体の指導者等が、未成熟なままエネルギーだけの覚醒を果たしても、狂人に刃物を持たせるのと同じで、むしろ社会にとって害になるだけで、もうこれ以上禅天魔を増やしてはならないという、成熟した社会理念の認識が叫ばれても可笑しくはないと思う。

例えば、麻原をグルとするオウム真理教は、草創期の頃、自己の解脱と衆生の魂の救済を目的として、修行の柱としたのが、ヨーガ・スートラのクンダリーニ・ヨーガであった。更に、グルへの帰依を絶対と植え付け、バクティー・ヨーガとカルマ・ヨーガをミックスした教義であったのも、後の大事件へと繋がる要因であったことは当然と言えよう。

グルである導師が正しく指導できなければ、当然の如く、弟子たちは皆、迷妄のまま背馳の観念に陥り、共に破滅の道を歩んでしまうのは、言うまでもない。

インドだけでなく、世界では、クンダリーニ・ヨーガの行法を活用し、外的なショックを与えてでもクンダリーニの覚醒を促す宗派も多いと聞く。

特に草創期の頃のオウムは、麻原が直接シャクティー・パッドを施し、更に、出家を促し、その後、24時間修行という強引な行法が、クンダリーニのコントロールを失わせ、心の思考停止からマインドコントロールへと導かれ、未だに、妄信している信徒が多いというのだから、深刻な問題である。

これらの現状を見聞きすると、クンダリーニ・ヨーガによる廃人が偽りのものでなく、その恐ろしさは今も続いていることを私たちは、深く認識せずにはおれない。

以上、『クンダリーニ・ヨーガの功罪について』と題して、ほんの一部しか述べられなかっ たが、紙面の都合上、多くを割愛したのは、次号へ回す楽しみがある分として、納得している。

そこで最後に一言、この度は、心山老師(※玉龍寺の老師)からの依頼で、クンダリーニの魔境とオウム事件の関連性を中心に、執筆してほしいとのことで、ほんの一部ではありますが、愚生なりに実体験を含め、丁寧に述べたつもりです。

ただ、少し残念なのは、同時掲載の村田氏の論説に対する批評や感想が加筆できないことであり、次号には、是非にも次の課題→《禅の見性とクンダリーニの覚醒との違い》《各チャクラの世界観と実生活での応用法》《《神の見性を科学で検証するには》《仏陀、竜樹、ダルマ、慧能、グル・リンポチェ、その他多くの祖師方に共通するものと、しないもの》等について、どれか一つでも伝えることができればと祈念する。(次号に続く)

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