オウム事件の総括と暗示 3

<麻原が黙殺しても万全の証拠>

 法廷で、麻原が黙殺したまま証言を拒否するから『何一つ解明されなかった』という考え方も大きな間違いです。

 麻原に対して、オウム草創期からの経験や事件当時の背景やその状況を、麻原の記憶の中で言葉にして示せと言っても、それは困難です。やはり学歴優秀で真面目な弟子たちの証言の方が正確ですし、私のように18冊もの手帳を持っていた証人の方が間違いが少ないです。

 それよりも、最も正確で麻原の当時を語る物が存在します。それは、麻原の説法であり、録音テープやCD、そして書籍数十冊の証拠品です。

 これらの中に、事件の端諸となる重要なフレーズやポア(魂を移し替える殺人の肯定やドグマ)やヴァジラヤーナ(悪業をグルのマハームドラーとして弟子の修行とする)の説法は十分い語り尽くされていたのです。

 これらは、特別の秘技でもなく、公にして教えの一つとされ、事件の当日や前後で、説法がガラリと変化する内容のものも含め、麻原の心境や教義の編成における経過もハッキリとした証拠品の一部なのです。

 これだけの証拠品がそろっており、時系列に沿って、麻原が弟子たちをロボットの如く操り、地下鉄サリン事件までに至った背景の全貌と、オウム特有のマインドコントロールの全ては、もうすでに、メディアには、出し尽くされていたのです。

 滝本太郎弁護士のみでなく、多くの心理学者や宗教学者も協力して、その解明に尽力され、一定の解釈はされているのに、なぜ、未だに『何一つ解明されぬまま』というフレーズが野放しになっているのか。実のところ、真に的を射たフレーズとは『何一つ癒されぬまま』であって、解明されては困るものかもしれません。

 世間では、やはり未だに存在するオウムの組織でる団体(アーレフとひかりの輪とロシアのグループ)が活動し、むしろ増加しているという不安と恐怖心に煽られ、さらに、どうして、カルト宗教が今もなお残っているのかという不思議さというよりも、許されぬという不信感と不可解な気持ちで一杯なのです。

 その反映としてのフレーズが、それなのであり、もう一つの理由は、宗教の価値観と世俗のモラルに歴史的なギャップがあることへの大きな溝を塞ぐためのカモフラージュなのかもしれません。

 国民の誰もが、「私は絶対にマインドコントロールされない」と確信しているからかもしれません。同じく、私自身、オウムに出家した時、利他行と解脱を信じていたので、犯罪や他人を不幸にすることなど、以っての他と声を大にして、修行と布施行を歓んでやっていたものでした。そして、「まさか、あの人が」と心の底から信じられないと叫ぶ私の友人、親友からも言われる身の立場になっている現実が、癒されぬまま解明してほしくない哀訴に聞こえてくるのです。だからこそ、マインドコントロールなのです。

 宗教のドグマとは、そういうものであり、人間とは、観念一つで生き方も人生も価値観も、一変してしまうものであることが、このオウム裁判でハッキリしたことは疑う余地もありません。

つづく

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