オウム事件の総括と暗示 2

<未だに解明されぬ訳>

 なぜ、愛する肉親がオウムの犠牲となり、殺されたのか、どうして高学歴で優秀な若者たちが、躊躇なく犯罪に走ったのか。

 16年間もの長い法廷審理では、『何一つ解明されぬまま』結審を迎えてしまった、というマスコミのフレーズに煽られるが如く、国民の多くが頷く光景が目に浮かんできます。

 どんな大事件でも一過性のワンパターンで報道を済ませてしまう日本特有の儀式で終了されては、たまりません。多くの被害者、御遺族にとっては、このような苦しみ悲しみは二度と起こってほしくないのですから。これは加害者側の家族も同じ思いであり、人のために尽くす出家が、なんと逆に人を不幸にさせてしまったことへの償いを、どのように示すべきかの、思い罪過の反省を最期の日まで行じるしかありません。

 ことの問題点は、偏に「何一つ解明されぬまま」という、一方的な切り捨て文句のフレーズであって、その責任の所在を裁判所や多くの被告人(弟子)や完黙の麻原に訴えているだけで、核心に迫る重要な証拠や証言に対して、主観的に無視しているかのようであり、まるで他人事であるかのような姿勢を貫くマスコミの報道倫理がよく分かりませんでした。

 なぜなら、オウム公判の審理は、一般事件に比べると数倍以上の時間を費やしていると、どの弁護団も申してます。

 私も、地裁では、心理鑑定で2ヶ月もの時間を与えられ、元最高検検事で名誉教授の土本武司氏や心理学者の医師で名誉教授の小田晋氏が弁護側の証人として出廷されました。

 私以外の各被告人は、取り調べの時の検事調書を全て不同意とし、地裁の法廷に、何十人もの証人を召喚したため、膨大な時間を要したことはマスコミが一番よく存じていることなのです。

 それでもなお、「何一つ解明されぬまま」というフレーズを垂れ流す現象は、この日本の報道倫理に欠陥が生じているのではないかと思わずにはおれません。もちろん、オウムが生まれたバブル時代の背景も、一つの要因であったのでしょう。

 故・坂本堤弁護士の友人であった滝本太郎弁護士も私の法廷に出廷され、弁護側承認として、麻原以外の弟子たちの刑を減刑される目的も含むものとして、マインドコントロールの内容について詳細に語られています。

 滝本弁護士は、オウム信徒(出家者)の脱会活動を続けられ、被害者の会(オウム家族の会)の弁護人で、さらに脱カルト協会の主催者です。

 なぜ、麻原を盲信するのか、どうして殺人をポアとする、正義と確信して行為に及ぶのか、そこまでに至るマインドコントロールの過程の全てを客観的に語れる弁護士は、滝本先生しか存在しません。

 また、オウムのマインドコントロールを解くことのできる貴重な人物の一人であることは間違いありません。

 故に、オウム事件とは、各事件の内容の違いはあっても、その全ては、麻原の教義の下、宗教という心の呪縛に陥穽した背馳の観念に至るジハード(聖戦)と同じであったと言えるのは、法曹界でもメディアも認めていたのは確かです。

 それは、21世紀の今もなお、世界中で起こり得る収容テロや民族間のドグマに支配された争いと同様の従属システムとも言えましょう。

 そのように見ると、各被告(弟子)たちの審理は十分に解釈されておられ、同情する姿勢も少なからず存在したと仄聞してます。

 なぜなら、裁判官の中にも、敬虔なクリスチャンや仏教徒も存在します。また新興宗教や神道系の信者もいますので。

 ただし、個人の本音はあくまでも宗教観念の自由意志であって、一般論の立場で解釈しなければならぬ法律家としての立場は、別のものなのです。

 そもそも裁判所という空間は、被告人の量刑を裁可する所であり、事件の心理的解明や同様の問題を二度と起こさぬために、政府に指導し、強く行政に提案を訴える期間でもありません。

 しかし、多くの被害者や国民が希求されるのは、カルト犯罪の無い治安であって、それを国が示してほしいのです。

 ところが、国の行政は宗教法人に対する税収を少し改善したのと、公安調査庁が行う団体規制法による監視を維持しても、その他、多くのカルト宗教や団体に対する撲滅対策や指導において、これといった顕著な進展は見られません。

 故に、滝本太郎弁護士のような民間のボランティアやキリスト教会とか、寺の住職が、被害者や御遺族の心の拠り所となり、オウム信徒の脱会活動やカルト組織の反対運動を、国の援助も無いまま、果てしなく続けていくしかないのです。

つづく

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